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高照神社

(たかてる じんじゃ)

津軽信政を祀る弘前の名社

高照神社は、青森県弘前市の岩木山麓に鎮座する由緒ある神社です。江戸時代の弘前藩第4代藩主・津軽信政公の廟所として始まり、のちに信政を神として祀ったことから創建されました。社殿の多くは、平成18年(2006年)に国の重要文化財に指定されており、歴史的・文化的価値が非常に高い神社です。

祭神とご神徳

高照神社では、主祭神の津軽信政命のほかに、以下の六柱をお祀りしています。

これらの神々は、武勇・知恵・繁栄・家運隆盛を象徴しており、特に津軽信政命は「名君」として領民から厚く信仰されました。

創建の由来

信政公の遺志による創建

宝永7年(1710年)、信政公が逝去した後、その遺命により、5代藩主・信寿公が師であった吉川神道の第2代宗主・吉川従長を斎主として神葬祭を執り行いました。信政公は吉川神道の教えに深く帰依しており、その思想を継承する形で廟所が建立されました。

正徳元年(1711年)には廟所が、翌年には本殿や拝殿などの社殿が整備され、弘前藩にとって精神的な支柱ともいえる存在となりました。当初は「高照霊社」と呼ばれ、藩士たちからは「高岡様」と尊称されました。

社殿の造営と特色

高照神社の社殿は、吉川神道の思想に基づく独特の配置を持ち、東から西へ一直線に鳥居、随神門、拝殿、本殿、廟所が並びます。この構成は、神道における「天と地」「人と神」を結ぶ思想を表現しており、全国的にも類例が少ないものです。

また、本殿・幣殿・拝殿はいずれも朱漆や丹塗で彩られ、精緻な彫刻や極彩色の装飾が施されています。拝殿正面には千鳥破風と唐破風を組み合わせた入母屋造が用いられ、華麗で荘厳な美を放っています。これらの社殿群は、江戸中期から後期にかけての神社建築の発展を示す貴重な遺構とされます。

吉川神道との深い関わり

津軽信政公は26歳の頃より幕府の神道方・吉川惟足(よしかわこれたり)に師事しました。惟足は吉田神道を基礎に、朱子学的理論を取り入れた「理学神道」を確立した人物です。信政公は江戸在府中、惟足およびその子・従長から講義を受け、吉川神道の奥義「三事重位」や最高秘伝「神籬磐境之大事」を伝授された数少ない大名の一人でした。

この学びを通じて信政公は、神を敬い、政治と信仰を調和させる理想を追求し、その精神が高照神社の創建理念に受け継がれています。

弘前藩による崇敬と管理

高照神社は弘前藩の精神的中心として位置づけられ、社領300石が与えられました。藩は神官や管理人を配置し、社殿の維持・祭礼の運営を一体的に行いました。その費用は約3万両(現在の価値で数十億円相当)にのぼり、藩の厚い信仰心と経済的支援がうかがえます。

また、藩主が代替わりするたびに社殿の修築が行われ、9代藩主・寧親公の時代には随神門や廟所門が建立されました。社殿の整備は単なる建築事業ではなく、藩の安泰と神威発揚を願う宗教的・政治的な行為でもあったのです。

現在の高照神社

明治以降は「高照神社」と改称され、明治13年(1880年)に県社に列格しました。境内は岩木山の美しい自然に囲まれ、松並木が続く参道は青森県の天然記念物に指定されています。朱塗りの社殿や整然とした配置は、訪れる人々に静謐で神聖な印象を与えます。

また、津軽信政公の人格と功績を伝える文書「お告書付」も多数残され、これらは弘前市の有形文化財として保存されています。これらの資料は、藩政と信仰が深く結びついた江戸時代の社会構造を知る上で貴重な史料となっています。

まとめ

高照神社は、津軽藩の名君・信政公の精神を今に伝える、青森県屈指の歴史的名社です。吉川神道の思想を背景に築かれた社殿群は、学問・信仰・政治が融合した江戸時代の文化の粋を示しており、訪れる人々に深い感銘を与えます。静かな森に囲まれたこの地で、往時の津軽藩の誇りと信仰の息づかいを感じることができるでしょう。

Information

名称
高照神社
(たかてる じんじゃ)

弘前

青森県